Motto-MAZETANO

Twitterやブログ記事から思ったことをつらつらと

頑張るということの難しさ

高校受験に大学受験、資格試験の勉強はそれなりに集中して頑張ったという記憶がある。

でも最近は頑張ることが難しく感じている。

「これをやれば自分の身になる」と分かっていることが目の前にあるとする。でも行動に移せない自分がいるのだ。

子どもであれば行動の結果を判断できず行動に移せないということもあり得るだろう。でも私は大人。判断はついているのに行動しない、というよりもできない。

極端なことを言うと「1万円あげるから5km一生懸命走って!」と言われてもやらなくなってる。決してお金があるからというわけではなく、単純に頑張れない。

これが歳をとったいうことなのか。

写真をとる人に見てもらいたいMV「宇宙飛行士」ハルカミライ

このブログに触れていなかったのでそろそろ書く。

2018年後半、私はカメラを買った。

結構前に一眼レフカメラを買ったことはあるけど、結局あまり使わないうちに姉にプレゼントするという結果になったので、今回は2回目のチャレンジだ。

被写体となるような人物は身近にはいない。ただ、街を歩いてそれっぽい写真をカッコよく撮ることを目指しパチリとしている。被写体となってくれる子供やかわいい彼女がいる人がうらやましい。


ハルカミライというバンドを知っているだろうか。最近の私のお気に入りバンドだ。

彼らの曲の中に「宇宙飛行士」というものがある。この曲がいいのだが、それよりも気になるのがMV。男女の恋愛を描いたドラマになっており、女優さんも可愛く何度も見ていたい気分になる。

その中での女性の台詞。

「あ、の、それって、カメラですか?」

この言葉から二人の関係は始まっていく。

言われたい。カメラを始めた自分としてはこんなこと言ってくれる可愛い子に巡り逢いたい。

カメラ好きな男性は一度見て妄想して欲しい。

ただ「カメラかどうか見れば分かるだろ」というツッコミをするような人は見る必要はない。

オジサンになりきれないオジサンの憧れ

女子高生が先生に恋をする。

これだけ聞くと女子向けの淡い恋のストーリーを想像する。でも、この映画を観て思ったのは「この映画のターゲットはオジサンになりきれないオジサンなのでは?」ということだった。

先生! 、、、好きになってもいいですか?

この映画は別冊マーガレットで連載された少女漫画「先生!」が原作。先生役に生田斗真、生徒役に広瀬すずと人気の二人が共演している。

とはいえ、どうしても思ってしまう。生田斗真(当時32歳)のことを女子高生が好きになるのかと。いや、生田斗真はかっこいい。憧れるのはあり得るとは思う。でも、広瀬すずを見たあとに生田斗真を見るとどうしても年齢を感じてしまうんだ。

マンガだとおそらく違和感がないのだろう。きれいに描かれ、素敵なふたりになるんだろう。だけど、実写ではそうはいかない。

そう思うと、この映画は「先生を想う生徒」というより「年下の女性に想いを寄せられる男性」という目線になってしまった。あぁ、これ男性が夢見てそうなやつだと。オジサンは流石にありえないと気づいているはずなので、オジサンになりきれていないオジサンがこの映画を観て夢見ちゃうやつだなと。

 

なんか寂しい

アイドルの寿命は短い。10代から始まり20代でアイドルは終わる。そこから先はまた違った何かになる。それは始めから分かっていることなのに、なぜか寂しくなることがある。

僕はアイドルが好きではない。商業的な部分があまり好きになれないからだ。

でもASAYANを見てモーニング娘。を応援したり、ももいろクローバーZの動画を見て頑張りに胸が熱くなったり、大好きなバナナマン経由で乃木坂46を知りメンバーのひとりひとりの個性を把握できるまでになったりはした。CDを聴いたりライブ行ったりということに興味はなくてもおそらく好きなのだろう。

2017年の年末から2018年の年始にかけて、その好きなアイドルグループから卒業していくメンバーがチラホラと出てきた。言葉にできない「なんとなく寂しい」という感情。モヤモヤしながらも「まあいつかはそうなるよな」という達観。そしてまた「なんとなく寂しい」。

そして2018年2月20日、元乃木坂46伊藤万理華の動画がYouTubeに投稿された。卒業前に開催された彼女の個展で使われた『はじまりか、』という動画だ。彼女は乃木坂の中では一般的には知られていないかもしれない。だけどとてもいい。「個人PVの女王」というニックネームもついているらしく、これまでも彼女単独のPVは評判が良かった。そしてこの『はじまりか、』。卒業を終わりと捉えずはじまりとしたこのPVは彼女のこれまでの苦悩とそれを乗り越えたこと、そして未来を期待させる内容になっている。

この動画を見て「なんとなく寂しい」と「なんとなく」が何なのか分かった気がした。それはそのまんま「卒業」の寂しさなんだろうと。

否定すること

「私が言うことにすぐ否定するけど何なの?」

これ、けっこう言われます。あまり自覚がないのでもう癖みたいになっているんだと思う。

ただ、気をつけてはいるんです。「それ違うんじゃないかなぁ」って思っても堪えて、今の機嫌なら言っても大丈夫そうというときを狙って否定的な意見を言う。「そうだね、そういう意見も分かるよ。でもね……」といった感じで。

だけど、この方法はまったく意味をなさない。結局「すぐそうやって否定する」と相手を怒らせてしまう。

どうしたらいいのかなと考えて出てきた結論。余計なことは言わない。

結局のところ相手は意見を求めているわけではなく「へー、そうなんだねー」とか「それは大変だったね」「その人、嫌な感じだね」など単に話を聞いて欲しい、同意して欲しいだけ。そこには正論だろうが何だろうが必要ない。ただバカみたいに同意してやればいいんだ。

自分発信のテーマは好きにしてもいい。でも相手発信の話について、それに便乗して自分の意見を出してはいけない。相手は意見を求めてその話をしているわけじゃない。そんなに自分の意見を言いたければ自分発信の話のときにしろ。

これが今回身にしみて分かったこと。人付き合い難しい。

高齢者に聞こえない警告音に意味はない

歳を重ねると高音が聞こえづらくなるらしい。

このことは何となく知っていたが、ここ最近それを実感する出来事に気がついた。

うちのストーブは2時間つけっぱなしだと「ぴー、ぴー、ぴー」と警告音が鳴る。付けたままだと危険だからだろう。そのまま付けておきたいのなら「延長」というボタンを押し、何も押さないと自動的にストーブは停止する。

このストーブが最近よく停止するのだ。

原因は簡単で母親がこの警告音を聞き取れていないから。ストーブの目の前にいても聞こえていない。決して耳が遠いというわけではなく「ぴー、ぴー、ぴー」という高音の警告音だけが聞き取れていないらしい。

また、お湯を沸かすときもそうだ。

ヤカンに水を入れガスレンジに火をつける。火の消し忘れがないようタイマーを設定するのだが、このタイマーの音も聞こえていないらしい。なのでお湯は多少ぬるくなるか、お湯を沸かしているのをじっと見守るしかない。

こうしたことが身近にあると実感する。

警告音は高音じゃないほうがいいんじゃないかと。

聞こえなくても問題がないこと、今回のようなストーブが停止したり、火が消えたりするだけであれば問題はないかもしれない。だけど、これが聞こえないと危険なものであったらと思うとゾッとする。

もしかしたら、いまどきの家電製品の警告音は高音じゃなくなっているかもしれない。うちにあるのが古いだけなのかも。だが、もし全般的に高音の警告音がまだ採用されているのなら対策を考えて欲しいと思う。

高齢者に聞こえない警告音に意味はない。

有益という言葉の安売り

SNSで記事を共有するとき「有益」という言葉をよく見る。
これに加えて「有料級」なんて言葉も。

有益なことがたくさんあるのはいいことだが、結局本当に有益かというとそうでもないことが多い。なぜかといえば、自分に全く関係のないことだったりするからだ。

どこかの誰かには有益なんだろうなとは思うが、そう簡単に「有益」という言葉を使われてもこっちとしてはいい迷惑に感じている。できれば一言添えて欲しい。「こういうことが書いてあるからこんな人には有益だよ」と。

まあ、SNSなんて個人の自由であっていいわけで、この愚痴もその自由からくるものだ。だから誰も守ってくれなくてもいい。

でもインフルエンサーなる人たちはできる限り気をつけてはくれないだろうか。

インフルエンサー × 有益」

この組み合わせはかなり強い。読みたくなる。にもかかわらず、自分にとって有益じゃないことが多々ある。好きだからこそ、有益な情報を貰えると期待しているからこそ求めてしまうのです。